山口藍は「とうげのお茶や」で遊女として暮らす幼い少女たちを、独特の支持体を用い、繊細な描線とセル画のような明解な色面で表現している。多彩なアングルで描かれるさまざまなポーズをとった少女たちには、江戸時代の風俗と作者特有のエロティシズムが同居しており、見る者に不思議な感覚を与える。

口は時代考証を基に彼女が創作する細かい設定を施した遊郭の世界を描いている。その世界観は多様で、少女たちにとっての現実の世界(「とうげの生活」シリーズ)に加え、彼女らが着物の文様に入り込むことをイメージする(「きぬぎぬ」シリーズ)という想像の世界や、法具を身につけ仏像のポーズをとる(「神様」シリーズ)という全く異なる次元の世界も描かれる。これらの世界構造は同時に存在するパラレルワールドとして浮かび上がり、見る者はそれぞれの作品ごとのさまざまな展開に引き込まれていく。 (

その世界を創造するモチーフはしばしば日本の近世美術(16c初期-江戸時代末)にヒントを求めたものであるが、平面性や装飾性を捉える作者の視点は、独自の解釈の上に成り立っていると言えよう。人物が平面装飾である着物の意匠の中に溶け込んでしまう、という表現は非常に二次元的だし、同様に枯山水の砂紋は、強調されたライン、デフォルメされた色と形でフラットに表現されている。 また反対に、本来日本美術の平面構成における装飾的要素であり空間と時間軸をあらわす金雲に、人物が実体あるもののように触れたり体をもぐりこませたりしている。最終的にはそれら全てが平面の形であらわされることは間違いないが、山口によって解釈を与えられた二次元と三次元の表現は定まりがなく、その境界線は自由に踏み越えられてしまう。
一方モチーフの平面表現とは逆に、支持体の内にはふとんのような質感をもった厚みのあるキャンバスや、桶などの立体的なものがある。このような立体的な支持体を用いることは、モノとしてのリアルな存在感と空間性を作品に補っていると言える。その結果、山口の作品からは浮世絵の美人画、近世障屏画、工芸の匂いも確かに感じられるのだが、前述の世界観をもった主題と、このような性格を備える支持体の選択によって、それらのうちどれに附合するとも明言できない独特の趣のものになっているのだ。 

少女たちは一連の作品でその幼い肉体を露にし、その多くが不安げな表情を浮かべている。彼女たちは相手や親を想って夢想にふけり、挑戦的ともいえる顔つきでこちらを睨む。そのポーズはごく自然な仕草ともとれるし、なにかを意識したような固さとも受け取ることができる。着衣であるときも、裸体で描かれるときも一貫してこれらの情景を取り巻いているのは、その幼さゆえか、自己が置かれている状況や身体に対して「無知」な感じである。だが、それゆえに彼女たちの刹那的な不安感や慕情といった感情だけが浮き彫りとなり、こちらに深く切り込んでくるのである。もちろんエロティシズムも忘れてはならない要素であり、作者の強い自己投影によって生まれるキャラクターは、身体そのものが強い印象を放っている。しかし一方で、彼女たちを動かす世界がこちらの意表をつくものに満ちているために、背後にある物語性によってエロティックな生々しさは遠ざけられているように見える。連作や対、揃にその傾向が多く見受けられるのは、画面と画面の連続性や主題の関連性によってより強く物語が暗示されるからからであろう。

現代美術において、日本美術が培ってきた平面性という問題が強調され、サブカルチャーとされるものとの接点が見出されている。山口のペインティングもまたその延長線上に位置付けられ、その絵柄と比較してアニメや漫画からの直接的な影響が指摘されることがしばしばある。しかしそれよりも、サブカルチャーにまみれて育たざるをえない現代っ子の感覚が、江戸時代をはじめとする日本の美術に敏感に反応していると言ったほうが正しいだろう。意匠の中で花器におさまるくらいに小さくなったり、花鳥とたわむれたり、仏像の持物や装飾品を身につけポージングする様子は、そんな感覚をもってしてダイレクトに少女たちをある情景へと放り込むがゆえに生まれるのではないだろうか。またここには、日本的な美しい「見立て」という文化の余韻が多く残されているように思う。そしてそういった感性は、山口の強い思い入れのある言葉(仮名・漢字そのもの)を駆使し、古語や造語を用いた印象的なタイトルの随所にあらわれている。これらのことから、山口が強く自己を開示するための少女像は彼女のフィルターを通した世界との微妙なバランスをとっていて、なおかつ高い完成度に裏付けられた作品が彼女にしか成し得ない強度をもっているのだということを改めて認識するのである。

(text 2002.6 Y.nitta)

   
■とうげのお茶屋について
吉原のすぐそばにある峠で隠れて商売している売春宿を舞台としてくりひろげられる9人の10歳前後の少女たちの生活を描く。「とうげのお茶や」のような隠れた営業を隠し売女とよび、当時吉原以外にもいろいろなところで当たり前のように営業されていたようである。そこで支払われる金額は、正規の営業よりも大分安く設定されていて「とうげのお茶や」では、ほぼ全員の娘の値段は一緒で、とくに年齢に応じたものはなくみんなで仲良くやっている。なので、お客も気兼ねすることなく選ぶことができる。
 通常13、14歳がいちばんの華とされる遊廓の世界であるが、とうげのお茶屋では女主人(未登場)が雇い人に、人里はなれた山へ身売りされた少女を買いに行かせる。買われた少女たちの親の多くは貧富の差が激しい世の中で多々の被害に会い、一挙に資産を失ってしまい仕方なく娘を売り飛ばす必要があった。
 そのような背景を持った少女たちの、まだ成熟しきっていない幼い仕草や、本当の吉原の遊女にちかづこうと努力する毎日の生活に魅力を感じ自分なりに設定を作って制作している。
登場人物、「いち」と「おきょう」(デビュー以来ずっと登場している名物2人娘。)、「おさな」、「菖蒲」、「たま」と「きく」(たま、きくは双児)「おきぬ」(一番の生意気娘)、「おはん」、「おたか」の9人。

■きぬぎぬについて
きぬぎぬ(後朝)とは、共寝した男女が翌朝お互いの着物を着て別れること、曉の別れのことである。私が解釈して描き続けているきぬぎぬシリーズとは、幼い遊女たちが共寝した男の人との別れを悲しんでその人の着物をまといながら、昨晩の想いやもう二度と会えないかもしれない不安(二度と会えないということはないかもしれないが、とうげのお茶やじたいが違法であることや彼女達がまだ未熟な考えしかできないので漠然とした不安に襲われる)を感じてその着物の柄に溶け込んで戻りたくない様子を表現している。きぬぎぬシリーズはたいがい、その表情に深い悲しみを描こうとしている。涙が溢れ出てしまう寸前のような、一瞬トリップしてしまうようなかんじ。

■とうげの生活について
私が想像でつくった隠れ売女の集まるとうげのお茶やでの日々のできごと。親から身売りされ独りぼっちになってしまった彼女達ではあるが、そのことを暗い過去を背負うような風にはとらえていない。まだ幼いので事情が良くわからないというのもあるし、お茶やでの自分のすべきことやお客への対応などに精一杯になっている。彼女達の視線や表情、仕草は恐怖感や悲壮感があるが、直接親に向けられるものではなくお客相手をしている最中やお掃除、お稽古をしているときにふと何かわからない不安感におそわれて感情があらわれる。

■お庭道について
とうげのお茶やには茜楼と紅楼とあり、それぞれに女の子たちの部屋がある。各楼にはお庭があり、お庭道シリーズではそれぞれの楼で暮らす女の子たちが自分たちの庭をきれいに保っている。遊女たちは茶道や書道、華道などたくさんの教養を身につける。お庭道はその一つとして考えお客様のためにというより、そう清潔にすることが自分の為であるとしつけられる。

■神様について
これは女の子たちの一種のコスプレである。宗教的な意味はまったくない。私が「みうらじゅん」の影響で図書館に行って仏像の本を見て仏像の身体の線が繊細でフワフワしていて楽しかったのと細部をよく見るととても不思議なものがくっついていたりそういうちょっとくだらないけど魅力的で見逃せない部分にひきこまれ女の子たちにぜひ成り変わってもらおうと始めたシリーズ。

(山口藍手焼きCDROM作品集「かむろ」より抜粋)